Rabaul, Papua New Guinea

Papua New Guinea
Papua New Guinea

ラバウル

今日は、7年前のチャーター便で訪れたパプアニューギニアのラバウル滞在記をお届けしたいと思います。ラバウルは戦時中、旧日本軍が占領し、ラバウル航空隊の基地が置かれた南太平洋の重要拠点で、零戦ファンの私がいつかは訪れてみたいと思っていた所です。

火山群に位置するラバウルは、1994年、Tavurvur Volcano(日本名:花吹山)の大噴火により、町全体が火山灰に埋め尽くされてしまいました。その為、ラバウルの中心街と空港は、ココポという少し離れた場所に移転しています。治安の悪い首都ポートモレスビーとは違い、ラバウルには、南国ののんびりとした時間が流れ、現地の人達も大変フレンドリーです。

 

ラバウルには3日間ほど滞在出来たので、私はこの機会に是非、旧日本軍の残した足跡を辿り、慰霊碑に手を合わせたいと思っていました。そして出来ることなら、零戦の残骸を探しに行きたいと思いました。残念ながら、ラバウル全体が火山灰に埋め尽くされてしまった為、当時の街並みや滑走路は残っていませんが、出来る範囲であちこち探検してみることにしました。

この時私は、Embraer 135 というジェットに乗務していました。フライトアテンダントは単独で私一人。パイロットは、豪州在住のアメリカ人とオランダ人の2人です。小さな会社でしたので、社員は皆家族も同然、どこへ飛んでも常に行動を共にしていました。私は早速二人のパイロットに、ラバウルではレンタカー(4WD)を借りて、Zero を探しに行きたいと提案しました。パイロットは誰もが飛行機オタクです。彼らも二つ返事で私の提案に乗りました。こうして私は、76年前には想像も出来なかった組み合わせ、敵国パイロット2人と、オーストラリア国籍の飛行機に乗って日本の基地に乗り入れ、一緒にZeroの残骸を探しに行くことになったのです。

 

私がフライトアテンダントになりたかった理由のひとつは、自分が生きている間に、ひとつでも多くの国や地域を訪れ、一人でも多くの人に出会ってみたいと思ったからです。国籍の違う同僚、お客様、滞在先の人々など、政治的、文化的、宗教的、歴史的背景の全く異なる人々と出会い、それぞれの立場から、今話題のニュース然り、世界の文化、歴史について、どんな風に思っているのか、生の声を聞いてみたい。そこから謙虚に様々なことを学び、視野を広げていきたい。これを実現出来ることこそ、フライトアテンダントになった私にとって、何よりの醍醐味であり、喜びなのです。ラバウルへのフライトでは、こうした自分の本来の目的を思う存分楽しむことが出来ました。パイロット二人とも、一緒にラバウルを訪れる事が出来た奇跡に心から感謝し、国籍に関わりなく全ての戦没者の冥福を祈りました。

下の写真は、かつての野戦病院です。病院とは名ばかりの、ただの洞窟です。戦火を逃れるだけで精いっぱいだったろうと想像出来ます。

そして遂に、零戦の残骸を見つけました。山本五十六連合艦隊司令長官が滞在した掩蔽壕が、現在では小さな博物館になっていて、旧日本軍の遺品などを展示しています。

零戦のウィングの日の丸に手を当てると、操縦していたパイロットの方の無念を感じ、胸がいっぱいになりました。

ところで皆さんは、「大空のサムライ」坂井三郎さんを御存知でしょうか?大戦中、敵機64機を撃墜した記録を持つ、零戦のエースパイロットです。坂井三郎さんの壮絶な戦記「大空のサムライ」は、私の大好きな本、宝物です。

この坂井三郎さんも、ラバウルをベースに活躍されました。いくつかの言語に翻訳され、世界各国で出版されています。現在私が勤めているチャーター会社のオージーパイロットにも、パプアニューギニアをベースに飛んでいた経験のある者の中に、”Samurai!” の読者が数人います。誰もが Saburo Sakai の戦記に手に汗を握り、夢中になって読破し、彼の人生に感服しています。私はパプアニューギニア、及び坂井三郎さんが瀕死の重傷を負ったホニアラ(ソロモン諸島・ガダルカナル島)へ飛ぶ度に、坂井さんを想います。

私のラバウル滞在は、生涯忘れることの出来ない貴重な体験となりました。76年前と同じ蒸し暑さを肌で感じ、同じ土の上を歩き、花吹山を眺めながら、坂井三郎さんをはじめ、旧日本軍が駐留した史跡を、アメリカ人とオランダ人の同僚と一緒に巡ることが来たのです。戦没者慰霊碑に立ち寄り、手を合わせ、心からこの平和と幸せに感謝し、御冥福をお祈りしました。