Shimoda

私のふるさと・下田

私の生まれ育った伊豆・下田は、周囲を美しい白砂のビーチに囲まれ、梅雨には野生のアジサイ300万輪が下田公園を埋め尽くし、冬には水仙の群生が爪木崎に咲き誇る、自然豊かな美しい街です。温泉、海の幸、温暖な気候にも恵まれ、近年では首都圏からの観光客ばかりでなく、外国人観光客も多く見られるようになりました。人口は2万人弱と、毎年減少傾向にありますが、最近では在宅ワークが可能になった事も手伝って、下田移住を決意された方々も多くいらっしゃる様です。パンデミックや社会不安が、多くの人々の価値観を変えました。本当に幸せな暮らしや、心を癒してくれる旅先はどこにあるのだろう・・・。温かい地元の人々、湧き出る温泉、新鮮なシーフードと心のこもったお料理、Crystal Clear な(透き通るような)ビーチ、下田にはそれらがすべて揃っています。

私は仕事柄、これまでに沢山の国や地域を訪れましたが、この小さな田舎町、下田こそ”Hidden Gem”(隠れた宝石)だと思っています。遠く離れた故郷・下田を、いつも思いながら、オーストラリアの大空を飛び回っています。

是非一度、この「隠れた宝石」を訪れ、素晴らしい旅の思い出を作ってみて下さい。私は下田が自分のふるさとであることを、心から誇りに思います。

 

私の好きな下田の歴史

皆さんは日本の歴史の中で、一番好きな時代は何時でしょう?私は幕末から明治維新にかけての日本史が一番好きです。若きサムライ達が、日本の未来の為に命懸けで奔走する躍動の時代、そしていよいよ故郷の下田が、華々しく歴史の舞台に登場する時代だからです。1854年、日米和親条約を締結したペリー提督が下田に来航したことによって、小さな風待港にすぎなかった下田が、突然開港されることになります。

10代の頃、郷土史家である叔父の書斎にて「ペリー提督日本遠征記」という一冊の本に出合いました。200年以上に渡る鎖国政策により、外国と一切関わる事なく小さな田舎町で質素な暮らしをしていた当時の下田の人々が、突然現れたアメリカの蒸気船と乗務員に、どんな印象を持ったのだろう。逆に、諸外国の影響を全く受けず、日本独特の生活様式の中で暮らしていた素朴な下田の人々を、当時のアメリカ人はどんな風に見たのだろう。そんな好奇心からこの本を開いた私は、「ペリー提督日本遠征記」に大変な衝撃を受けました。

1854年、ペリー艦隊がこの地に上陸したのを記念して、ペリー艦隊上陸記念碑が建てられています。ペリー艦隊は、ここから、市内了仙寺にて日米和親条約付録下田条約を締結する為、約400mの道のりを行進したと伝えられています。現在ではこの道が、ペリーロードと呼ばれています。川沿いにはなまこ壁の民家などが並び、当時の情景を彷彿させます。ペリー提督以下、米国船員達は、下田の街並みや人々を、どんな風に見たのでしょう。是非このペリーロードを、了仙寺まで歩いてみて下さい。

まず、私はペリーが残した日本に関する膨大な記録に圧倒されました。寄港した沖縄や小笠原諸島、下田についても、植物や街並み、人々の暮らし、風俗など、詳細な記録が残されていました。当時は写真の技術がさほど進んでいなかった為、ペリー提督の航海には画家が随行していた様です。日本遠征記のところどころに、随行画家の描いた挿絵が掲載されており、画家の目を通して描かれた下田の庶民の様子に、大変興味を抱きました。中でも印象的だったのは、下田の公衆浴場についてのペリーの記述と、随行画家が描いた男女混浴の絵でした。当時の下田の公衆浴場は男女混浴であり、道徳心に優れた日本人が、なぜ平気で混浴出来るのか、という驚愕したペリーの記述があります。又、おはぐろの風習も、ペリーには非常に不衛生で、グロテスクに映った様です。こうした教科書には載らない数々の逸話に、私は大変な興味を抱きました。歴史好きの方にはおススメの一冊です。

又、黒船の来航により、幕末の日本は大混乱に陥ります。その中でも、吉田松陰の密航作戦は衝撃的な事件でした。松陰は、鎖国の禁を犯して米国への密航を企て、下田沖に停泊中の米艦ポーハタン号に近づき、渡航を懇願するも断られ、その後投獄され、安政の大獄により30歳の若さで処刑されます。日本の将来の為に、命の危険を冒してでも「外国を見たい・学びたい」という松陰の志には感服させられます。下田には、こうした松陰ゆかりの史跡もあり、開国の歴史を充分にお楽しみ頂けると思います。

どうぞ皆さん、是非下田で素敵な休日をお過ごし下さい!

 

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